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文化財・観光
町の見どころと、公衆無線LANの場所
観光施設15件
町立歴史文化資料館
昭和16年(1941年)建築の講堂(国登録有形文化財)を資料館として活用しています。
椎尾神社
祭神は、素盞嗚命(すさのおのみこと)・聖武天皇・後鳥羽上皇をまつっています。
山崎の渡し
山崎側からは石清水八幡宮へ、対岸からは山崎聖天や柳谷観音への参拝へと、昭和37年(1962年)まで利用されました。
水無瀬神宮
承久の変の後、隠岐で崩御された後鳥羽上皇の遺勅に基づき、水無瀬離宮の旧跡で上皇をまつったことにはじまります。重要文化財である「客殿」をはじめ多くの文化財があり、開放的かつ繊細なつくりが見ごたえある「茶室(灯心亭)」は、予約のうえ見学できます。
水無瀬の滝
嵯峨天皇、後鳥羽上皇も御幸して滝を観賞された記録が残っています。寛政10年(1798年)発行の「摂津名所図絵」にも詳しい解説があり、昔から愛された観光スポットです。
離宮の水
水筒に入れて味わってみよう。離宮の水は水無瀬川などの伏流水、つまり島本町の地下水。貴族たちがこの地を選んだ理由が、わかるかもしれない…
サントリー山崎蒸溜所
島本町は、国産ウイスキーのふるさと 蒸溜所ツアー(有料・要予約)ではシングルモルトウイスキー「山崎」の構成原酒(非売品)もテイスティングできます。蒸溜所内にあるウイスキー館ではウイスキーに関する様々な展示物に加え、有料テイスティングカウンターも人気です。山崎蒸溜所ならではのお土産を取り揃えたギフトショップにも、立ち寄ってみてください!
史跡桜井駅跡史跡公園(楠公父子訣別之所)
足利尊氏を迎え撃つため兵庫に向かった楠木正成が、この地で子の正行と別れたという伝承で知られます。JR島本駅前にある史跡公園には、クスノキが生い茂り、多くの石碑が建ち並んでいます。
若山神社
創建は古く大宝元年(701年)行基僧正が勅命にて勧請し、南北朝時代には楠木正成が正行との訣別の際に重臣を参拝させたと伝えられます。境内に自生するツブラジイ林は大阪府天然記念物に指定され、春は桜、秋は紅葉の名所として定評あり。太閤道をはじめハイキングコースの出発・通過点にもなっており、ハイキング客も多く訪れます。
大沢の杉
天狗が住むといわれ、神木として昔から大切にされてきました。大阪府指定天然記念物であり、保全のため近づいて触れることはできませんが、付近でたたずむだけでパワーがもらえそう…。
山吹渓谷
水無瀬川の上流、かつて町の花であるヤマブキが咲き誇っていたことから名づけられました。途中「乙女の滝」などがあり、ハイキングコースとしても楽しめます。
尺代
環境省「生物多様性保全上重要な里地里山」に指定されている尺代は、みどり豊かな山林と段々畑に囲まれ、清流が流れる静かな集落で、どこか懐かしい風景が広がっています。
西国街道
西国街道は、古くから京と大宰府を結んだ大動脈です。山崎には、山城国と摂津国の国境があり、また都の外港である山崎の津もあって、陸路・水路による交通の要衝として栄えました。
水無瀬駅周辺商店
島本町の名水でつくられた食べ物やお土産、地元で獲れた「ジビエ」など、魅力的な商品のあるお店が並んでいます。
高浜
阪急水無瀬駅から歩いてすぐの場所に、田園風景が広がります。都市部からすぐ訪れることができると話題のいちごハウスもあります。
文化財:国宝2件
後鳥羽天皇宸翰御手印置文
水無瀬神宮所蔵。現在、京都国立博物館に寄託。 後鳥羽上皇の死の直前に、勅命により水無瀬殿を守っていた水無瀬信成・親成父子に申し送った置き文です。 自身の最後が近いことを告げ「日頃の奉公を不便に思うが便宜の所領もないので、力及ばず、水無瀬・井内両荘を相違なく知行して、わが後生をもかえすがえす弔うように」という内容のものです。置き文の一面におされた朱の手印が、上皇の激しい性格と無念さを示しているかにみえます。
紙本著色 後鳥羽天皇像(伝藤原信実筆)
水無瀬神宮、所蔵。現在、京都国立博物館に寄託。 承久の乱の直後、生母である七条院に送るために藤原信実に描かせたものといわれています。 後鳥羽上皇死後、水無瀬殿の地に御影堂が建てられ水無瀬信成・親成父子は隠岐から送られた「御手印置文」と修明門院(後鳥羽院後宮)から寄進された上記の直衣姿の肖像画の俗体と、隠岐に在って御自ら鏡をとって写されたと伝えられる法体の御影二幅とを安置しました。
文化財:重要文化財5件
水無瀬神宮客殿
拝殿(はいでん)に向かって左側にあります。時期は不明ですが、豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられています。 桁行(けたゆき)六間、梁間(はりま)五間の入母屋造(いりもやづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)。全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになっています。 一時は社務所、または江戸時代には広間や宸殿(しんでん)と呼ばれていました。
水無瀬神宮茶室
茅葺寄棟造(かやぶきよせむねづくり)。御所から移築したものと言われ、一般に「灯心席(とうしんせき)」または「灯心亭(とうしんてい)」と呼ばれています。これは、茶室の格天井(ごうてんじょう)に山吹(やまぶき)、トクサ、ヨシ、萩など十種余りの灯心の材料とされた草木を用いていることからの名称です。昭和初期以前は「七草の席」とよばれました。
後鳥羽院御置文案文
鎌倉時代のもの。 本文41行の古文書です。書き出しは「我ハ法花経ニみちひかれまいらせて」で始まり、末尾は「後鳥羽院御置文之案文嘉禎三年(1237)八月廿五日」で終わります。
後鳥羽院宸翰御消息
鎌倉時代のもの。 後鳥羽上皇によって記されたもので、本文24行の古文書です。書き出しは「番匠男梅元浦入したるあひた」で始まり、末尾は「九月廿三日」で終わります。
紙本墨書 後村上天皇宸翰御願文
南北朝時代のもの。 後村上天皇によって記されたもので、水無瀬離宮跡に菩提寺として大興禅寺を創建しようとした発願文です。しかし、残念ながら、大興禅寺の建立は果たされることはなかったようです。
文化財:史跡1件
文化財:登録有形文化財7件
島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)
JR島本駅の駅前に所在する桁裄(けたゆき)11間、梁間(はりま)7間と大きく、入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんがわらぶき)の建物に裳階(もこし)を廻らせて、正面には入母屋(いりもや)屋根の玄関を構える木造平屋建の建物です。 全体的に簡素ですが、日本の伝統的な社寺建築の要素を用い、規模に相応しい堂々とした意匠にまとめられています。 内部は大空間で折上格天井(おりあげごうてんじょう)を張り、現在展示室として使われている中央のホールには回廊が廻っています。片側に設けられた舞台は、当初演壇として使われていました。 北側にある桜井駅跡が国史跡に指定されて以降、地元の名士からの寄付によって整備・活用され、本建物もその一環として、昭和15年(1940)に建設されました。後に「麗天館」(れいてんかん)と名づけられました。 裳階(もこし):仏堂や塔、あるいは城の天守などで、軒下に付いた庇状の構造物のことです。通常、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けます。
水無瀬神宮本殿
入母屋造、銅板葺(元檜皮葺)、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間の社殿で、明正天皇(めいしょうてんのう)の内侍所(ないしどころ)を移築したものと伝えられています。 内部は内陣と外陣に区画され、敷地は三方に瓦葺きの築地塀(ついじべい)5条が巡らされ、背面の中央に門、社殿の周囲に雨落溝(あまおちみぞ)が配され、本殿はその中央の亀腹基壇(かめばらきだん)の上に据えられた土台の上に建築されています。簡素ながら風格のある意匠を備える社殿で、江戸前期にさかのぼる宮殿建築に由来する建物です。 明正天皇:江戸時代の初め頃に在位した天皇。在位期間は、寛永6年(1629)~ 寛永20年(1643) 内侍所:三種の神器の一つである 神鏡を安置する施設。
水無瀬神宮拝殿及び幣殿
昭和4年に建てられました。 拝殿の屋根は入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺(どうばんぶき)の雄大で落ち着いた雰囲気の入母屋造(いりもやづくり)の拝殿に、独特な意匠の木鼻(きばな)と伸びやかな曲線の蟇股(かえるまた)を飾り、設計者である内務省技師角南隆(すなみたかし)の特徴が表れています。 官幣大社:明治時代に定められた神社の格式制度で、最も高く位置づけられたもの 木鼻:社寺建築において、柱の上部より外に突き出している特徴的な部材。装飾が施されることが多い。 蟇股:社寺建築において、梁の上などに置かれる部材。上部の加重を支えるため、カエルが足を広げたような形をしていることからその名がついた。
水無瀬神宮手水舎
神門の北寄りに位置し、屋根は入母屋造(いりもやづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、妻面には木連格子(きつれごうし)、梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)が施されています。 大正期に建てられたもので、石鉢の正面に「奉納盥漱」(ほうのうかんそう)、側面に「構社」(こうしゃ)と刻まれています。
水無瀬神宮神庫
木造2階建土蔵造、屋根は寄棟造(よせむねづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、切石積(きりいしづみ)の基壇上に建てられ、正面に4段の石造階段が設けられ、入口の観音扉(かんのんとびら)上部に桟瓦葺きの下屋(げや)が設けられています。 大正期に建てられたものです。
水無瀬神宮神門及び築地塀
参道の突き当たりに構えた門で、控え柱を設けた薬医門(やくいもん)形式、屋根は切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺き(ほんかわらぶき)、軒は一軒の疎(まば)ら割りです。 本柱の挿肘木(さしひじき)の方斗(ほうと)で支持された男梁(おばり)が軒桁(のきげた)を支持しています。 小屋組(こやぐみ)は、男梁の上に立てられた撥束(ばちづか)に実肘木(さねひじき)を設けて棟を支え、妻には梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)が施されて、扉は観音開きの板唐戸(いたからと)です。 門の両脇に築地塀を備え、本殿と同様江戸前期にさかのぼる離宮跡地に相応しい格式を示すものです。
若山神社本殿
建築年代は江戸時代後期にあたる文化4年(1807)です。 社殿の形式は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)ですが、正面の柱の間隔が均等ではなく、中央の間隔が広く、その前面に唐破風(からはふ)が付いているという大きな特徴があります。 特に唐破風は、手前に大きく突き出した「向唐破風(むこうからはふ)」と呼ばれるものです。大阪府内の神社で向唐破風を備える本殿は非常に珍しく、その堂々とした姿は当本殿の大きな見所と言えます。 よって、若山神社本殿は、建築年代が明らかな北摂地域の優れた神社建築の一つであり、向唐破風を備える貴重な神社本殿として、評価されました。 三間社:正面からみて柱間が3つある(すなわち柱が4本立つ)社殿のこと。比較的規模の大きい社殿に用いられることが多い。 流 造:神社の屋根の形式の一つ。手前側の屋根を長く伸ばして、軒下を参拝の空間とする。 唐破風:弓を横から見たように、中央部分が高く、左右はなだらかな曲線を描いて伸びる破風のこと。軒先に飾りとして付く「軒唐破風(のきからはふ)」と、前面に独立した屋根として設置される「向唐破風(むこうからはふ)」の2種類がある。軒唐破風は神社の屋根によく見られ、向唐破風は大きな屋敷や旅館の玄関などに見られる。
文化財:府指定文化財2件
関大明神社本殿 附:棟札(12枚)
山崎の関所の跡といわれ関守神または辻神を祭ったのが起こりかと考えられています。 平安時代、関が廃止されその跡地に関戸院(公営宿泊施設)が置かれ、貴族や官人達が利用したようです。本殿は、正面の蟇股(かえるまた)の彫刻、頭貫木鼻(かしらぬききばな)の禅宗様系の若葉彫刻などから室町時代中ごろに建てられたと推定されています。 現在は、覆屋に囲まれており、覆屋の扉は祭りの時にしか開きません。
若山神社「東大寺村おかげ踊図絵馬」
幅約30センチメートルの板を三段につなぎ、黒の額縁をつけた横長の形で、縦90センチメートル、横121センチメートルの絵馬です。 天保2年(1831)6月に東大寺村若連中が中心となり、西八王子社(現若山神社)境内で行われた「おかげ踊」の様子を同地の男8名が世話人となり、西八王子社へ奉納したものです。
文化財:府指定天然記念物3件
大沢のすぎ
北部大沢集落の東山腹斜面にあります。 樹齢は不詳で、樹高は約20メートル、幹周りは6.7メートル、枝張りは約31メートルです。 地元では、古くから神木としてしめ縄が張られ、天狗の止まる木とされ、触れることも禁じられていました。昭和52年3月に大阪府天然記念物に指定されました。 スギ属の常緑高木です。日本の原生種で長寿の木とされています。
尺代のやまもも
天王山の尾根から派生した標高15メートルの山頂付近にあります。樹齢は600~700年の雌樹で、樹高は15メートル、幹周り約3.5メートル、枝張りは約23メートルです。 樹皮は褐色の染料に、紫紅色の果実は食用になります。やまももの実がたくさん採れた時代には尺代橋詰で売られていました。昭和53年8月に大阪府天然記念物に指定されました。 日本や中国が原産の常緑樹で、温暖な地域に分布します。初夏に赤黒い実をつけます。
若山神社のツブラジイ林
若山神社境内の西側に、幹周りが2.5メートルを超える巨樹が42本自生しています。最も大きいもので、樹高は32メートル、幹周りが4.2メートルあります。 自然林で、幹周りが2メートルを超える、非常に珍しいものです。平成14年1月に大阪府天然記念物に指定されました。 ブナ科の常緑高木です。
文化財:町指定文化財7件
水無瀬駒 関連資料
小将棋「八十二才」銘 漆書 中将棋「八十六才」銘 墨書 中将棋(残欠、4枚)漆書 象戯圖(しょうぎず)(二巻) 将棊馬日記 「水無瀬駒」とは、水無瀬神宮に伝わる将棋駒のことです。 水無瀬神宮の13代目の宮司を務める水無瀬兼成(みなせかねなり)は、安土桃山時代の公家で、能筆家であった彼は駒の銘を書き、89歳で亡くなるまでに700組以上もの将棋駒を制作しています。 将棋駒の先が細く薄く、手前が肉厚幅広な形は兼成が確立させ、以後、高級な駒の形はこれに倣っています。また、江戸時代には、「将棋駒の銘は水無瀬家の筆を以って宝とす。この筆跡の駒、免許なきもの弄すべからず」とまで言われました。
神像(伝 聖徳太子七歳像)
像高35.6センチメートル、臂張(ひじはり)は24センチメートル、作者は未詳です。 髪と短く両肩から背面に垂らして、衣内で拱手し胸前で組む姿をしています。 ヒノキの縦一材から、頭頂から地付き(じつき)まで丸彫りし、髪、衣などに彩色を施した簡素な造りで、背面の彫りは省略されています。 首をすくめた拱手の姿勢、深い面奥・体奥、大振りの衣文(えもん)は平安時代前期的な特徴を感じられますが、彫りは形式的で、浅めになっており、制作は平安時代後期と思われます。 大きな弧を描く眉、細い眼、細い鼻筋に極端なおちょぼ口は、この時代にはあまり見られないものです。この像は、島本町の鎮守社として住民の厚い信仰を集めてきた若山神社に「聖徳太子像」として祀られてきましたが、聖徳太子像としては例のない姿をしているところから後世に聖徳太子像として信仰されてきたものと思われます。島本町の最古級の神像として非常に貴重な文化財です。 現在、大阪市立美術館に寄託となっています。
宝城庵 薬師如来立像
宝城庵薬師堂の本尊で、左手に薬壷を持つ一般的な薬師如来像です。像高は96.5センチメートル、薬壷を手と共彫りしていて、平安時代後期の薬壷を表す数少ない例として貴重なものです。作者は不詳。 ヒノキ材、一木造り、彫眼(ちょうがん)、彩色仕上げ。頭頂から足?まで一材で彫成され、これに両肩に材を寄せています。螺髪切子型(彫出)。肉髻珠・白亳相は表していません。三道を表し、耳朶は貫通しています。左手は、掌を上にして薬壷を載せ、光背を負い、蓮台の上に両足を揃えて立っています。台座、光背は後のものです。鼻・手などに補修の手が加わっており、右手は袖口を入ったところではぎ、薬壷と共木の左手は袖口で矧いでいます。全面黄土彩色を施していますが、彩色はほとんど剥落しています。 平安時代における数少ない優作の一つとして、また保存状態が良好であることも賞されています。
勝幡寺 薬師如来立像
像高150.1センチメートル、作者は不明です。 ヒノキ材で、割矧ぎ(わりはぎ)造りと思われ、彫眼、漆箔仕上げです。頭部は、頭頂からノミを入れ両耳後ろを通る線、両肩後ろ、裾張内側を通る線で割り、内刳りの後、矧ぎ合わせていると見られます。左肩先は別材を矧ぎ、右手を矧ぎ、左手を袖口に差し込んでいます。木心を後方に外し、両足半ばより先、および両足先と薬壺は別材。肉髻珠は木製、白亳は水晶です。 螺髪(らほつ)は切子型(彫出)。耳朶(じだ)は環状。肉髻玉・白亳・三道を表します。裙を着けて柄衣を纏い、右肩に覆肩衣を着けています。右手は屈臂して 掌を前にし、五指を伸ばしています。左手は垂下して軽く屈し、掌を上にして薬壷を載せ、光背を負い、両足を揃えて蓮台上に立ちます。後頭部を大きく損傷したため、応急的な修理を施しています。肉髻珠(にっけいしゅ)・白亳(びゃくごう)・両足先・薬壷・台座・光背(こうはい)は後補。両手指に後補部があり、表面は一部の漆箔を除き後補。 丸顔に撫で肩の体躯、浅く繊細な衣文など平安末期の様式を基本としていますが、穏やかな中に厳しさを感じさせる表情や、左袖外側に見られる直線的な衣文表現などから、鎌倉時代に入る頃の作と推定されます。
勝幡寺 元三大師みくじ関係資料 一式
みくじ箋の版木 ・・・9枚 みくじ箱 ・・・1個 みくじ竹 ・・・99本(1本欠) みくじ箪笥 ・・・1基 みくじ版木には魔よけで信仰を集めた角大師の絵や、大吉、小吉などの運勢の吉凶の説明が彫られています。 角大師とは平安時代の天台宗の中興の祖である良源(元三大師)のことで、寺院や神社で行われる「みくじ」の創始者と言われていて、自ら夜叉の姿となり、厄除けの象徴となることを誓ったといわれています。 版木は、全部で9枚(補作1枚を含む)あり、材質は山桜、彫刻は薬研彫り。保存状態は良好です。両端には拍子木のような四角柱(反り止め)が取り付けられており、版木より厚く、重ねた時に傷まないよう工夫されています。両端をレール状に加工し、すべて同方向でスライド式に通していす。 大きさは平均で、縦約21.0センチメートル、横約85.0センチメートル、厚み約1.8センチメートルの長方形です。表・裏に彫られ、一面にはみくじ箋6枚分を刷ることがでします。9枚目の版木は片面で4枚分、全部で1から100番までのみくじ箋が制作できます。 みくじ箋の内訳は、大吉17枚、吉36枚、小吉6枚、末(スヱ)吉6枚、半吉3枚、末小吉3枚、凶29枚です。 版木の彫刻の状態や、反り止めのスライド式構造などから、制作年代は18世紀と考えられます。 全体を通して版木の彫りがしっかりとしていることから、版元である寺が本屋に依頼し、専門の彫師が制作したものと考えられ、みくじ箋の版木の優れた例として貴重です。
須恵器 大甕
口径52.6センチメートル、器高105.0センチメートル、容量522.6リットルで、ほぼ完形です。 出土地は宇治川と桂川が合流する中洲先端部で、平成6年に付近で野外調査をおこなっていた地域住民によって発見されました。 出土地の上流には「山崎津」推定地があり、平安時代には港として栄えていたとされています。生産地は、大阪府南部、播磨から備前にかけての諸窯、尾張、美濃を中心とした東海諸窯のいずれかと考えられ、現段階では特定に至っておりません。また、制作年代については、奈良時代末期から平安時代初頭と考えられています。 容量500リットルを超える大甕は、都での需要が高く、酒造りや藍染めなどの手工業生産に使用されたと考えられます。この甕が淀川河床から出土したことは、大甕のような大型品は陸路で運ばれたのではなく、水路で運ばれたことを示す資料として大変重要で、全国的にみても類例の少ない希少なものです。 古代の都への交通路や運搬経路を知り、都との関連の深い本町の歴史を理解する上では極めて重要な考古資料といえます。
若山神社 絵馬
若山神社は、もと「西八王子社」または「牛頭天王(ごずてんのう)社」といわれ、祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。社伝によると、飛鳥時代の文武天皇の時代、大宝元年(701)に僧行基(ぎょうき)が天皇の勅を受けて勧請したとされ、この地の字名より現在の社名となりました。 神社所蔵の小絵馬は戦時中に焼却され、今は大絵馬五面だけが残ります。いずれも江戸時代のもので、そのうち一面は「東大寺村おかげ踊り図絵馬」です。山城から摂津を経て播磨に伝播した文政のおかげ踊りの伝播経路を裏付けるものとして、平成16年に大阪府の有形民俗文化財に指定されています。
公衆無線LAN3件
出典
- 「観光施設一覧」(島本町)を加工して作成 / CC BY 4.0
- 「文化財一覧」(島本町)を加工して作成 / CC BY 4.0
- 「公衆無線LANアクセスポイント一覧」(島本町)を加工して作成 / CC BY 4.0
ライセンス:クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際(CC BY 4.0)